「一度きりの大泉の話」萩尾望都 [読書]
このところ目がしょぼしょぼして他の事が手につかないのは、この本に書かれている心因性のものではない。読了して以来、関連するレビューをスマートフォンを手にするたびに見まくっているからだ。衝撃的な内容への率直な感想、「事件」への言及、漫画評論の視点の問題、両漫画家(萩尾望都、竹宮惠子)の作品及び気質の考察などなど、双方のファンまたは中立的な立ち位置から様々な意見が噴出。発売後一ヶ月を経て今なお蒸気を噴き上げ、現在進行中活火山の様相を呈している。
以下ネタバレになるけれど、かいつまんで本書の概要を記します。
① 過去にあったこと
1970年代、駆け出しの少女漫画家たちが集まり大泉サロンと称して共同生活を営んでいた。新たな作品のモチーフとなる情報交換をしたり互いの創作ノートを見せ合っていたのだが、ある日「事件」が起きる。著者萩尾望都の作品が盗作ではないかと竹宮惠子と友人の増山法恵に詰め寄られたのだ。近づかないでほしいという内容の手紙を渡された後も盗作疑惑の風の噂に悩まされる。「私は死体と暮らしている。誰の死体?」と大泉時代を回想。この事で心因性の身体症状を起こし精神的に深く傷つきながらも、創作に邁進する経緯が生々しく語られている。
② 現在この本を書かざるを得なかった理由
著者はおよそ半世紀にわたり①を封印してきた。しかし2016年竹宮惠子が「少年の名はジルベール」という自伝本を出版してからというもの、大泉サロンを少年漫画のトキワ荘のように少女漫画の歴史としてプロモーションしようというオファーが顕著になった。現在の仕事に支障が出るほどに。(「少年の名はジルベール」は先方より送られてくるが一読せず返送した。)本書の後半は竹宮惠子を「かの人」と記述し絶縁する意思を決然と表明、マネージャーの城章子の文章を添えて終わる。
萩尾望都の漫画そのものに本書に書いてあることの及ぼした影響が数多く指摘されることも興味深い。たとえば自分の悪いところを見ようとしない人間の側面は「残酷な神が支配する」や「きみは美しい瞳」、「城」、メッシュシリーズ「耳をすませば」他で描いていると気づかされる。
萩尾望都と竹宮惠子の作品を「似て非なる」と表現したツイートとレビューを見かけた。
https://note.com/violet1991/n/nd40d1949fed1…
ヨーロッパの少年の寄宿舎やSFなどの一見類似モチーフの多い作品でも水と油ほどに違う。日頃友人と語り合っていることでもあった。話題の二つの著作もまさに同じ時代の事柄を書きながら全くちがうものになったという意味でパラレルだと感じる。
今回ほどなぜ作品をそのように表現するのかという動機の重要性を考えさせられたことは無い。作者の心根に基づく人生観が否応でも反映されてしまうのだ。
トーベ・ヤンソンの「ムーミン谷の夏まつり」(講談社 下村隆一訳)のセリフを紹介したい。「劇場」を本や作品に置き換えてみてもうなずける。
「劇場というもんは…そこへいけば、だれでも、じぶんにどんな生きかたができるか、見ることができる。してみる勇気はのうても(無くても)、どんなのぞみをもったらよいか、それからまた、ありのままのじぶんは、どうなのかを、見ることができるでのう。」
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