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「福翁自伝」① [読書]

ようこそです。 

「福翁自伝」は明治30年の口述速記に自ら加筆訂正後出版されたもの。 

いまや一万円札の顔となった福沢諭吉が

激動の時代を生きた60歳までの生涯を

余すところなく伝えた読み応えある一冊です。


生誕地は大阪ながら出自は豊前(大分県)中津の

下級武士の家で1835年に誕生しました。

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若い写真はすこぶる男前[揺れるハート]

 

漢学者でもあった父は封建制度にしばられ不遇のうちに早世した。
そのため”門閥制度は親の敵でござる”と思いながら育つ。 
子供の頃は遊んでいたが14、5歳より地元の塾で漢書を学ぶ。
手先が器用で障子の張り替えや下駄、屋根の修繕などの引き受け役で
そのうち金物細工などの内職を手がける。
世間にかまわずマイペースで神社のご神体を
迷信だとその辺の石とすり替えたいたずらも。
漢書の中の”喜怒色にあらわさず”を気に入り金言とする。
  
21歳に長崎へ遊学に出て初めてオランダ語の原書を読む。
ここでも生来のマメさを発揮、
滞在先の掃除水くみ動物の世話など一切をやり重宝がられた。
  
ソレカラ江戸を志す手前で大阪に行き
蘭学の緒方洪庵の塾(適塾)で頭角をあらわす。
(口述ゆえソコデ、ソレカラとカタカナ表記が面白い)
23歳の時兄が病没し福沢の家督を継いだ。
同じ塾で徳川家藩医の子の手塚良仙(手塚治虫の曾祖父)にも出会っている。
塾風はバンカラ、酒に強く夏は素裸 、翌年塾長になる。
  
25歳に藩命により江戸へ出て鉄砲州の奥平家を間借りして
蘭学塾をひらき、これが慶應義塾の起源となった。
翌年横浜見物の際、オランダ語が外人相手に役に立たず
ショックを受け、慌てて英語の勉強に切り替える。
  
1860年いよいよ咸臨丸に乗り込み
浦賀よりサンフランシスコを目指す。
(勝海舟、ジョン万次郎も乗船)
航海は揺れに揺れたが
”何のことはない、牢屋に入って毎日大地震にあっていると
思えばいいじゃないか”
と強気でオランダから買った船を信じていた。
  
アメリカでは大歓迎、初めて見る馬車
じゅうたん、シャンパン、ダンス[ぴかぴか(新しい)]
工場見学でメッキ技術や砂糖の精製法を見たが
案外知っていることが多く
それよりも政治経済を知りたかった。
  
とある写真店でそこの15歳の娘とツーショットをとり
みせびらかす茶目っ気を発揮
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さすが大物、当時にして少しも物おじしませんね^^;
  
この頃日本では桜田門外の変が起き
攘夷論が盛り上がっていた。
帰国後は幕府の外国方(当時の外務省)に雇われる。
  
翌年結婚、1862年ヨーロッパ旅行へ出発。
ロンドン、パリ、アムステルダム、ベルリンから
ロシアのペテルスブルグまで周遊。
至る所で歓迎に合う。
幕府のお目付役が同行し見物にまで付いてくるので
日本の鎖国をかついできたようだと苦笑した。
ロシアでは外科手術の見学で
血をみて気が遠くなり担ぎ出される。(唯一の弱点?)
またあるときロシアにとどまらないかと
こっそり勧誘をうけ、気の知れない国だと思った。
”外国の人にわかりやすいことで字引にも載せないことが
こちらには一番むずかしい”
病院、銀行の仕組み、郵便法、徴兵令
選挙法、政党の関係などなど
これらをまとめて後に「西洋事情」に著す。

  
帰国後、攘夷論はますます高まりを見せ
いつ戦争となるか一触即発の機運。
逃げようとするとき役に立たない物は
さんざん買い占めたが重くて持てない米と味噌だと
ユーモアを忘れない。
薩摩と英軍が開戦、身の危険を感じ外交機密文書を焼却、
刀剣を売り払い、世間をよそに著書翻訳に励んでいた。
  
いやはや江戸から明治への激動期
福沢の人となりも一筋縄でなく記事をまとめるのに大苦戦^^;
  
後半に続きます[ー(長音記号1)]
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