「姉・米原万里」井上ユリ [読書]
ようこそです。
ロシア語の同時通訳、ニュースコメンテーター、
ジャーナリスティックな著作で活躍した米原万里。
今は亡き個性的な姉を妹の視点でつづったエッセイです。
米原姉妹は共産党幹部だった父親の赴任先、
当時の社会主義国チェコの首都プラハですごします。
(1959~1964年、万里9~14才、ユリ6~11才)
ソビエト学校では夏にキャンプでキノコ狩りや釣りを楽しみ
冬の林間学校はスキーとソリで遊びました。
この頃の写真は健康的な丸顔で本当に可愛らしい。
家族で”赤いエリートの避暑地”黒海沿岸の
ソチ、ヤルタ、セヴァストーポリのホテルですごしたことも。
観光地はチェーホフの別荘やバフチサライの泉などがある。
(ちなみに黒海は鉄と硫黄が反応して黒っぽいのだとか)
1963年にはソ連と中国の関係が悪化し
日本人にも風当たりが強くなりました。
プラハ在住時は欧米人の中の日本人である上
両親が不在がちで二人きりの姉妹の絆が強くなる。
そして帰国後は日本の学校と生活への
適応という試練が待っていたのです。
万里は東京外国語大学時代ダンスにはまり
民族舞踏研究会を立ち上げた。
卒業後は東大大学院で19世紀のロシア詩人
ネクラーソフの研究をした。
北海道大学に進んだユリを待ちわびて万里が作った詩が
雑誌「ユリイカ」に載ったことがある。
ユリの愛称を連呼した「ういしゅる帰る日の歌」は
ユーモアに隠された万里のさみしい心情が痛いほど伝わってくる。
卒業後、妹のユリは大阪で料理の勉強、
姉は通訳の道へとそれぞれの人生が始まっていく。
「あまり物怖じしない私はスッピンのまま、
さびしがりやで少し臆病なところのある姉は
濃い化粧と派手な衣服を身につけ
ことばには毒舌とシモネタという思い鎧をまとって
社会に一歩踏み出していった」
さてカルチャーショックといえばまず食べ物。
帰国後の姉妹がショックだったのは
日本に黒パンと本場のソーセージがない!でした。
黒パンの発酵食品特有の酸味はやみつきになるのですね。
ほかにクネードリチ(蒸しパン)、
シュパネルスキー・プターチェク(スペインの小鳥)という
牛肉の包み煮などが恋しかったそう。
食べ物についてはエッセイ「旅行者の朝食」に詳しい。
ちなみに「旅行者の朝食」とは
ソ連時代のまずい缶詰のあだ名で
ドッグフード似のペースト。
写真下のハルヴァは
ナッツ、油脂、砂糖を固めたお菓子で
とてもおいしい。
1987年妹のユリは作家の井上ひさしと結婚。
万里は友人に「妹さんが日本のシェークスピアと結婚したんじゃ
万里さんの相手は日本にはいませんね」と言われた。
二人ともお父さんが大好きで小学校のときなど
「うちは共産党だから席は左にして」などと
口にする子供だった。
海外生活を経ると愛国心が強くなるが
日本人としてたくさんのものを欠落させたまま成人している
という引け目もかかえていた。
本が大好きだった万里はやがて骨太な著作を書き
数々の賞を受ける。
「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」
「オリガ・モリソヴナの反語法」
は旧共産圏の生々しい背景を描いた
恐ろしいほどの作品ですがここでは言及しません。
前者はプラハ時代の三人の同級生のエピソードの話。
1995年にNHK「世界わが心の旅」で
級友との感動的な再会ドキュメントが放映され
YouTubeで視聴できます。
米原万里は2006年ガンのため56才で亡くなりました。
共産圏での海外生活という特殊な環境で育った少女時代。
帰国後の日本での生活への適応の難しさ。
幾重にも絡み合った異なる価値観の中、
支え合いながらも生き方を模索しなければならなかった
姉妹の戦いは身につまされます。
軽く書かれて見える本書には
国際社会に女性としていかに生くべきかという
重いテーマが含まれています。
写真は1984-5年、シベリア(サハ共和国)でのテレビ取材番組。
ユリが大好きな姉の写真。
巻末の福岡伸一(生物学者)の解説が鋭い。
「コワモテ伝説のオーラをまとった米原万里にとって
密かに恐れた最も怖い一番手厳しい、
できれば自分の作品を精読してほしくない読者・・・
それは妹のユリではなかったか。」
鎌倉の万里が建てた「ペレストロイカ御殿」を
ユリと訪れた福岡氏。
ふいに植え込みから黄色い蝶がひらひらと飛び出した。
「あっ、万里さんが会いに来てくれた!」
するとユリがすかさずつぶやいた。
「万里があんな可憐な蝶とは到底思えないわ」